恩師 灘尾弘吉先生を偲んで

 みなさんは灘尾弘吉先生をご存知でしょうか。広島城の堀の西側に銅像が建てられ、今もその遺功に触れることができます。 かつては知らぬ人なきというほどでしたが、昨今では先生を知らないという世代が増えてきました。 隔世の感というのでしょうか、少々さびしい思いもしますが、椎名悦三郎先生、前尾繁三郎先生とともに”政界の三賢人”として称えられたほどの方ですから、私は先生の足跡を後の世に語り継いでいきたいと思うのです。
 私には幸運にも恩師と呼べる方が幾人かおります。そのほとんどが今や故人となられましたが、とりわけ 政治に関しては灘尾弘吉先生から多くを教わりました。 また先生には結婚の媒酌、そして県議への立候補と、人生の節目節目でお世話になり、その人柄に接する度に感銘を受けたものです。今も私の政治家として、人としての考え方の基本として、先生の教えが生きています。
 灘尾先生は1899年12月に、能美島の大柿村に誕生され、そこで幼少期を過ごされました。幼少時代は、お兄さんやお父さんの買ってくる雑誌や、ふり仮名付きの新聞を読むのが好きで、小学校入学時は、教えられることに新鮮味がなくて退屈し、学校嫌いに陥ったとか。
 その後、県立広島中学に進学され、第一高等学校、東京帝国大学法学部を経て内務省に入省されました。中学校時代は「青年よ大志を抱け」という校長の指導の もと、男らしく、さわやかさにあふれた毎日を過ごされたようです。
 内務省入省後は、主に社会局で活躍され、健康保険制度の実施や、救護法、児童虐待防止法の制定など、社会保障制度の充実に取り組まれました。その当時は大正時代、近代化のひずみとして困窮者が増加し、多くの社会問題が表面化しておりました。 先生が所属された内務省社会局は、そのような状況の中、今でいう福祉国家的理想を持ち、新しい行政のパイオニアとしての気概にあふれていたそうです。問題の原因は個人にではなく社会にあり、解決には行政の積極的関与が必要との信念のもと、先生も熱心に取り組まれました。
 その後、厚生省、大分県知事などを経て内務次官となられましたが、内務次官就任後間もなく日本は敗戦を迎えます。先生には様々な思いがおありになったことだろうと思います。特に中学時代を過ごした広島が灰燼に帰してしまったことには言い知れぬものがあったようです。 また、後の広島の復興と県民市民の誠心誠意の努力には、常に身の引き締まる思いであったと仰られていました。
 敗戦後は公職追放の指定を受け、昭和26年の解除まで、浪人生活の身となられました。解除の翌年、当時の広島県知事の勧めから衆議院議員に立候補され当選。ここから先生の政治家人生が始まります。灘尾先生は緒方竹虎先生に師事され、 昭和30年には共に保守合同に尽力されました。緒方先生は清潔で白梅がごとき人物であられたとか。 国連の緒方貞子高等弁務官の義父にあたる方です。保守合同後は当然緒方先生が首相となられると思われましたが、残念なことに翌年急逝されました。
 その後成立した石橋内閣では文部大臣として日教組問題の解決にあたられました。戦後の占領政策の影響から日教組を中心に偏向教育が行われ、日本の教育環境は、政治的中立性を欠く状況にありました。教育が政争の道具にされる状況を見かねて、 「教育百年に関することは容易に妥協すべきではない。」との決意のもと、日教組と対峙されました。度重なる話し合いがもたれましたが、日教組はストライキに及び、日本の教育は荒廃していきます。
 昭和36年組閣の池田内閣では厚生大臣となられました。官僚時代の実績もあってのこととは思いますが、先生は「豊かな生活と社会福祉の実現は公的施策だけで達成できるものではない。国民のすべてが社会福祉を自分自身の問題として考え、実現する活動に参加することが必要である。」 との考えのもと、全国社会福祉協議会会長、中央共同募金会会長への就任要請をお受けになるなど、社会福祉の推進に政治家としても積極的に関わっておられました。
 また、「高齢者が自分たちの生活を自主的に考え、お互いに学び、余暇を楽しみ老後を明るく意義あらしめようとする団体として、高齢化が進むこれからの社会においてますます活躍が期待される。」との考えから、後に全国老人クラブ連合会の会長にもなられております。 高齢者の”生きがい”についても、早くから注目されていたようです。
 第二次佐藤内閣のときには、日本の芸術文化行政の立ち遅れを危惧し、また、国土開発に伴い文化財保護の必要性がますます高まることを見通して、文化庁の創設に尽力されました。
 昭和47年5月には沖縄が返還され、7月には田中内閣が成立し日中国交正常化が急速に進み、国際情勢が大きなうねりを見せる中、日本はそれまで極めて親交の深かった中華民国(台湾)との国交を失う事態に直面します。先生はそのことを心から残念に思われ、 「日華関係議員懇談会」という組織を結成し、日華間の経済文化交流継続に向けて、直ちに行動を起こされました。その関係者の努力もあり、昭和50年には交流が再開される運びとなりました。このこともあって灘尾先生は台湾の方から、 日華間の友好親善に大変な寄与をされたと感謝されることが多かったようですが、「台湾とお互いになんでも話し合える状態を作っておくことが重要で、それが日本の国益になるのです。感謝をしていただく筋合いではないですよ。」と最後まで謙虚で誠実な姿勢を貫かれました。 そのことは私の政治姿勢にも大きな影響を与えています。
 昭和54年1月には衆議院議長に就任されました。先生は2度の議長を経験されましたが、その中で派閥の弊害をますます痛感されたようです。政治を動かす原動力が全て派閥次元で画策され、人事にまでそれが及ぶ。国政が本来の政治政策論から離れ、派閥間の醜い抗争に成り下がる。 揚げ足取りのような質問に官僚も振り回され、本来の役所の業務が疎かになる。党の大臣に対する無理な要求によって、合理的な制度設計への役所の懸命な努力が無駄になったりもする。その結果国政が荒廃していく。 先生は行政府の諸君が自信と誇りを持って物事に対処してほしいと願っておられました。内務官僚と政治家の両方を経験された先生の心からの願いであったろうと思います。
 「僕は三世紀を生きるんだ」と常々仰られておりましたが、平成6年(1994年)1月22日、もうあと少しの長寿を願う我々を残して御他界になりました。
 政治家の政治家としての姿勢、倫理観、自らを省みて恥を知るということ、私が先生の清廉な生き方から学ぶことです。先生の政治姿勢を継承しつつ、政治の場で努力することが先生への恩返しであると私は思っております。
 先生とのご縁に感謝し、先生の遺徳を偲びつつ。


このページの先頭へ

座右の銘

「夫子の道は忠恕のみ」

受賞・表彰

呉市蔵本通りの設計に対して
日本造園学会より
「日本造園学会賞」を受賞

少年消防クラブでの活動に対して
消防庁長官より
「消防庁長官表彰」を受ける

陸上競技への貢献に対し
日本陸上競技連盟より
「秩父宮章」を受章

日華親善への貢献に対し
中華民国(台湾)より
「外交奨章」を受章